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最低賃金1500円「2030年代前半」への先送りは、責めるより設計をやり直す好機だ

いま何が起きているのか

2025年度の最低賃金は、全国加重平均で1121円になりました。前年から66円、率にして6.3%の引き上げで、過去最大の上げ幅です。この改定で、47都道府県すべてが初めて1000円を超えました。最高は東京都の1226円、最低は高知・宮崎・沖縄の1023円です(厚生労働省2025年度最低賃金まとめ)。

ここに、もともと石破政権が掲げた大きな目標がありました。「2020年代のうちに、全国平均1500円」です。1121円から1500円へ。残りは4年ほどしかありません。この期間で届かせるには、毎年およそ7〜8%、額にして年90円を超える引き上げを続ける計算になります。

その旗を、高市政権が下ろそうとしています。報道によれば、政府は達成期限を「2030年代前半のできるかぎり早期」へと先延ばしする方向で調整に入り、近くまとめる成長戦略に盛り込む方針です。日本経済新聞の試算では、仮に2030年代前半に1500円へ届かせるとしても、年3%超の伸びを続ける必要があるとされています(時事通信日本経済新聞)。

「公約破り」という怒りは、半分しか当たっていない

先送りの一報が流れて、SNSでは「また逃げた」「生活実感がない」という声が広がりました。物価がこれだけ上がっているのに賃上げの旗を下ろすのか、という怒りは、よく分かります。7月だけで食品2566品目が値上がりし、年間では2万品目ペース。円安は一時1ドル160円を超えました(帝国データバンク)。暮らしが削られている実感のなかで、1500円が遠のく話は、確かに冷たく響きます。

でも、少し立ち止まって考えます。「2020年代に1500円」は、そもそも達成できる根拠のある数字だったのでしょうか。

過去最大の66円を上げてやっと1121円です。ここから4年で1500円に届かせるには、その過去最大の66円をさらに上回る、年90円超の引き上げを4回連続でやり続けなければならない。しかもそれを、体力の一番ない地方の中小企業に、同じテンポで飲ませ続けることになります。無理を承知の号砲だったのだとしたら、それを実態に合わせて引き直すこと自体は、無責任どころか、むしろ誠実な部類の判断です。

だから期限が延びたこと「だけ」を責める気にはなれません。問題は、別のところにあります。

最賃を号令で押し上げる、という発想の危うさ

最低賃金は、政治が「いくらにする」と決めれば上がる数字ではありません。それは企業が生み出した付加価値の分け前であって、原資がなければ、上げた瞬間にどこかがへこみます。

最低賃金を思い切って上げるべきだという主張には、ちゃんとした裏付けがあります。第一に、賃金の底が上がれば、これまで賃上げに消極的だった企業も追随せざるをえず、下位の賃金層が確実に底上げされる。第二に、労働経済学には「モノプソニー(買い手独占)」という考え方があって、地方や特定業種で雇い手の力が強い市場では、緩やかな最賃引き上げは雇用をほとんど減らさず、むしろ労働参加を促すという実証もある。第三に、人手不足の時代には、高い最賃が省力化投資や生産性向上を企業に強いる「良い圧力」として働く。だから多少の痛みを伴っても、政治が目標を掲げて引っ張るべきだ——これは、感情論ではない、筋の通った立場です。

私も、この主張の相当部分は正しいと思います。実際、ここ数年の大幅な引き上げでも、日本の雇用が目に見えて壊れたわけではありません。

それでも、です。モノプソニー論が効くのは「緩やかな」引き上げの範囲であって、4年連続で過去最大級を続けるような急伸は、その安全圏を確実にはみ出します。すでに、最低賃金の引き上げに伴う人件費増について「具体的な対応が取れず収益を圧迫している」と答えた企業が31.4%にのぼるという調査もあります(エデンレッド解説中小企業庁)。原資のない引き上げが行き着く先は、賃金そのものの上昇ではありません。シフトを削る。募集を止める。自動化を前倒しして人を減らす。あるいは、静かに店を畳む。時給の額面は1500円でも、働ける時間や場所が消えてしまえば、手取りは増えません。号令の割を食うのは、いつも一番弱い雇用です。

つまり「2020年代に1500円」は、生産性という土台の話を飛ばして、結果の数字だけを先に約束してしまった。その無理が、いま「先送り」というかたちで表に出てきた。私はそう見ています。

本当の問題は「できるかぎり早期」という言葉にある

では先送りを丸ごと肯定するのかというと、そうではありません。今回のやり方には、はっきり反対です。

引っかかるのは、「2030年代前半のできるかぎり早期に」という表現そのものです。これは、期限のようでいて、期限ではありません。2030年かもしれないし、2034年かもしれない。「できるかぎり」と付けた瞬間に、達成できなくても誰も嘘をついたことにならない、都合のいい逃げ道が生まれます。目標を掲げる政治家にとっては、これほど安全な言葉はない。裏を返せば、達成を担保する責任を、誰も負っていないということです。

無理な数字を掲げて突っ走るのも問題なら、無責任な言葉でぼかして責任を溶かすのも問題です。前政権は前者で、いまの調整は後者に振れている。私が本当に嫌なのは、この「振り子」です。有権者に必要なのは、勇ましい号令でも、優しげな先送りでもなく、いつまでに何を積み上げるのか、届かなければ誰がどう説明するのか、という検証可能な約束のはずです。

ではどうすべきか

まず、期限を延ばすなら、その代わりに「原資を作る工程表」を同じ紙に書き込むこと。最低賃金は結果です。上げたいなら、上がる会社を増やすしかない。省力化投資への税と補助、価格転嫁を渋る発注元への監視強化、そして中小の生産性向上支援を、賃上げ目標と一本の因果でつなぐ。「いつ1500円か」より先に「どうやって払えるようにするか」を示す。順番を、逆にしないことです。

次に、全国一律の平均値で語るのをやめること。東京の1226円と沖縄の1023円を同じ「1500円」で縛る発想には無理があります。地域ごとの物価と生産性に応じて、目標と支援を分ける。号令は一つでも、現場は47通りです。ここを均せば均すほど、割を食うのは低い方の地域の雇用になります。

最後に、「できるかぎり早期」という言葉を、数字に置き換えること。たとえば「毎年、全国加重平均で名目3%以上」と、達成方法の側で約束する。ゴールの年をぼかす代わりに、毎年の歩幅を約束すれば、進んだか止まったかを毎年きちんと採点できます。ぼかしていい数字と、ぼかしてはいけない約束を、取り違えないことです。

賃上げが要らないと言っているのではありません。順番の話をしています。時給の額面を政治が先に約束しても、それを払う会社の稼ぐ力が伴わなければ、約束は雇用を削って辻褄を合わせるだけ。1500円という数字を本気で届かせたいなら、旗を高く掲げることより、旗を支える竿を太くすることに、いまの一年を使うべきです。


出典

本文中の事実(最低賃金の額・引き上げ幅・都道府県別水準・目標の先送り方針・必要な引き上げ率・企業の負担感)は、以下の報道・公的資料に基づきます。数値は改定時点・調査時点のもので、前提により幅があります。目標の立て方や工程表・地域別設計・毎年の歩幅を約束すべきだという評価と提案は、筆者の意見です。社説・論説は「事実」ではなく別の意見として扱いました。

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